銅像・胸像・ブロンズ像製作・修理 創業1927年銅像胸像実績2,000体以上。日本最多製作実績と歴史。高岡銅器 株式会社竹中銅器

今治城築城・開町400年の節目にあたる2004年、記念事業のひとつとして、藤堂高虎公像が建立されることになり、その製作と設置を竹中銅器(竹中製作所)が請け負っています。
今治開町の祖といわれる、藤堂高虎公の銅像は、吹揚公園に建てられ、今治のシンボルとして、市民の皆さんに親しまれています。数多くの築城を手掛け、戦さでは大きな負け戦さをしたことがなかったといわれる高虎公。意外にも、その功績は広く知られていないようです。ここでは、高虎公が歴史に残した足跡をたどってみます。
近江犬上郡藤堂村の土豪、藤堂虎高、おとらの次男として1556年、群雄割拠の戦国時代に生まれています。
1576年には羽柴秀長(豊臣秀吉の異父弟)の家臣となり、小牧長久手の戦いで大きな戦功を上げ、紀伊粉河で1万石の城持大名となりました。
秀長亡き後、秀保の後見人となるも、今度は秀保が没すると、高虎公は前途を悲観し、高野山に入山し、剃髪してしまいます。しかし、その才を惜しむ豊臣秀吉の目に留まり、大名として下山させているほどです。
その後は、秀吉の家臣として、期待通りに数々の功績を上げ、伊予宇和島に7万石を与えられるに至っては、並々ならぬ器量人であるとともに、築城縄張については、天下に比類なきと称されました。朝鮮へも2度出兵し、戦功を上げているのもこの頃。こうした点で、高虎公は歴戦の強者で、いかに戦上手であったかがうかがい知れます。
築城縄張については、修復した城、築城したものを、ざっと上げただけでも、今治城、上野城、伏見城、江戸城、篠山城、亀山城、津城、宇和島城、大坂城、二条城・・・と名だたる名城の多くに関わっています。
高虎公は、秀吉亡きあとに天下を制するのは、家康以外にないと考え、豊臣家から徳川家へ急接近しています。
たとえば、秀吉が禁じていた無断婚姻を家康が無断で行ったために、石田三成が家康を大坂城に呼び出し、反旗を翻すようなことあらば、即座に家康を切り捨てる、という策略を立ててました。これは、関ヶ原の戦いの前のことです。
しかし、この策略を知った高虎公は、事前に家康に知らせ、未然に済んだために、家康は天下人として、後世に名を残すことができました。
関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に大いに貢献し、その成果と忠誠が認められ、伊予今治に20万石の領地を得る大大名となりました。
さらに大坂の陣では、長曾我部軍などに壊滅的な打撃を与え、大坂城陥落ののちには、32万石に加増されるに至りました。
高虎公は、もともと豊臣恩顧の外様大名でありながら、家康から親藩以上の厚遇を受け、重く用いられました。それは、武将としての豪胆さ、また、人心をつかみ、人民をうまく使うという点でも、仁義礼智忠の心厚く、武と知を兼ね備えた武将だったといえるからでしょう。
そこには、己の天賦の才能を駆使しながら、戦国末期をしたたかに生き抜いた武将という人物像が浮かびます。

今治市開町の祖として、藤堂高虎公を未来永劫に伝え称えようとの、市民の皆さんの熱い想いから実現した、藤堂高虎公の像。文化勲章を受章された先生の原型による、雄大で威厳に満ちた騎馬像がここに完成しました。
竹中銅器では銅像建立を実現させる段階の打ち合わせから参画し、原型の決定から鋳造、仕上げ、着色、現地への搬入設置までを請負っています。近年では稀な大型銅像のため、全社をあげての体制をとり、綿密な打ち合わせを行いながら、完成に至りました。
現在、全国各地で開町記念の催しが行われています。銅像やブロンズ像を建立したいご希望の自治体様や、市町村様からの問い合わせも近年、特に多くなったようなように思います。
竹中銅器では、全国どこでも設置・建立に参ります。ご希望、ご要望に応じて、原案から設置建立、あるいは除幕式まで、サポートさせていただきますので、お気軽にご相談ください。

銅像・胸像製作実績2,000体以上。ご相談・お問い合せ・カタログ請求承り中。