竹中銅器(竹中製作所)にて請け負った、当社における最大級規模の修復プロジェクト。
長崎平和祈念像の修復に至った理由から修理修復完了までをご紹介します。
原爆投下から10年。恒久平和の願いを込めて、昭和30年8月9日の建立以来44年を経過した長崎平和祈念像。 平成9年に老朽度調査を行った結果、経年劣化による損傷が激しいことが判りました。 特に腕部の老朽と損傷が著しく、このままでは落下の危険性もあることから、全面修復されることになりました。
修復は、長崎平和祈念像建立の際、制作者である北村西望氏(長崎県出身)の助手として建立に深く関わった、富永直樹氏総指揮の下で行われました。
竹中銅器(当時、竹中製作所)では延べ1,200人を超える人員の投入となり、昭和の大修復として、竹中製作所だけでなく、高岡銅器の技術の粋を結集した取り組みとなりました。
銅器製造は分担作業で成り立っており、仕上、溶接、着色など、工程ごとに「腕ききの職人」を長崎に派遣して進められました。
平和祈念像は、バラしてみると、合計104のパーツで構成されていました。
建立当時、個々のパーツは様々な工場で、別々に製作され、また材質が均等でなかったため、溶接作業は困難を極めました。
着色は、建立当時の鮮やかな青銅色を再現するために、10種類の色を調合し、準備しています。
当時、現場の指揮にあたった竹中製作所 長慶取締役(当時)によれば、先人の技には驚かされることが多かったと記しています。
たとえば、銅像を構成する青銅ブロックをボルトでつなぎ合わせる技術では、接続面のボルト穴はパーツごとに、別々(の工場)に開けられたはずなのに、9割がピタリと重なり、「今にして思えば、(これだけの巨大な銅像としては)信じられないくらいの精度だった」と述懐しています。
こうして長崎平和祈念像の大修復は、多くの人の尽力によって無事に完了しました。
銅像や銅器など多くの銅製品を扱う会社として、竹中銅器(竹中製作所)がこのようなプロジェクトを受託できたのは、名誉なことであり、また、高岡銅器の技術を内外に広く知っていただけるという意味でも、とても有意義なことであったと思います。
あらためて、今回の改修に参画いただいた関係者の皆様方に御礼を申し上げます。 改修を終えた長崎市は、平和祈念像の裏側に修復の経過を記した銘板を取付け、台座内部には修復工事の設計図をはじめ、関係資料を保存することにしました。
これまで、老朽化のため見合わせていた消防放水による水洗いを今後は取り止めることにし、3年に1度の割合で手作業による洗浄を行うことに変えたとのことです。新しく生まれ変わった長崎平和祈念像は、被爆で亡くなった犠牲者の冥福を祈るとともに、世界に向けて平和の尊さを訴え続けていくことでしょう。(平成12年2月)